Sugiyama 人間になろう 椙山女学園歴史文化館

【歴史展示室トピックス 2】 <開校当時の模型>

【歴史展示室トピックス 2】 開校当時の模型

 

 明治38年の名古屋裁縫女学校の開校当時の生徒による模型です。名古屋市富士塚町(現在の東区泉あたり)にある尾張藩の稲葉邸を借用し、開校しました。模型から察せられるようにその屋敷は間口が広く大きな門構えのある大屋敷で、開校式やその後は教室と使用される事となる桜の間と呼ばれる部屋のすぐ目の前には大きなしだれ桜の木がそびえ立っていました。写真パネルコーナーにはその桜の間の縁側で談笑する生徒の姿や、点茶を楽しむ生徒の姿が展示されています。開校当時およそ90名だった生徒は翌年にはおよそ250名まで達し、次々と増えていく生徒の数に教室不足が生じたことから屋敷の東側に分校を新築しました。分校ができた当時の地図「学校位置及附近之図」からも伺い知る事ができます。
また近くには武家屋敷のほか善光寺や高岳院などの寺院や、近隣にも多くの学校が設立され、名古屋で最初の文教地区が形成されていきました。
 
模型.JPGのサムネール画像

      以上は「歴史文化館ニュース 創刊号」に掲載されたものです。

 

【歴史展示室トピックス 1】 <開校当時の制服>

【歴史展示室トピックス 1】   開校当時の制服

明治38年の開校当時の生徒たちは髪を日本髪か束髪にし、海老茶の行灯袴(あんどんばかま・股の間に仕切りのないスカートのような形の袴)に、足元は下駄というものでした。この海老茶というのは紫を帯びた暗い赤にやや茶色がかった色で、当時、女学生の袴の色として流行していました。またその様子を平安時代の才女・紫式部になぞらえて、女学生を「海老茶式部」と呼ぶ事もあったようです。現在では、皇室において内親王が5歳を迎える際に執り行われる「着袴の儀」にもこの海老茶が使われています。当時はまだ校章が制定されていなかったため、裾の黒い波形テープによって椙山の生徒とみなされました。その後、この波形は同色直線2本になったり、その間に白線を加えたりしながら時代と共に変わっていきました。
以上は、紙媒体「歴史文化館ニュース 創刊号」に掲載されたものです。
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歴史文化館ニュース 第2号を転載します

歴史文化館ニュース 第2号を2009年12月7日に発刊しました。

 

主な項目は、以下の通りです。

 ・大学開学60周年記念写真展のご案内

 ・歴史文化館動向

 ・企画展の募集

 

以下の文字をクリックすると、PDFファイルとしてご覧いただけます。

歴史文化館ニュース2. 

歴史文化館ニュース 創刊号を転載します

 

歴史文化館ニュース創刊号を2009年10月20日に発刊しました。

 

主な項目は、以下の通りです。

 ・創刊号発行にあたって(歴史文化館運営委員長 椙山美恵子)

 ・歴史文化館を訪ねて(同窓生で旧教員の加藤元子氏)

 ・文化展示室トピックスおよび歴史展示室トピックスなど

 

以下の文字をクリックすると、PDFファイルとしてご覧いただけます。

歴史文化館ニュース創刊号.

 

【歴史の窓から 1】 <森川如春庵と椙山女学園>

 

 

以下は、紙媒体の「歴史文化館ニュース 創刊号」に掲載されたものですが、転載致します

 

【文化展示室トピックス 1】 森川(じょしゅんあん)と椙山女学園
                         
 
 歴史文化館開館記念企画展「椙山正弌・今子 趣味の世界」に於いて、「男爵益田翁孝貞三輪女頌徳之詠草」と題した掛け軸が展示されている。
 この掛け軸の箱書きには森川如春庵の名前が記されており、展示品として事前に調査を行ったところ、大変貴重な掛け軸であることが判明した。
 森川勘一郎(1887~1980、以降「如春庵」)は尾張一宮の大地主森川家の当主であり、近代を代表する茶人の鈍翁益田孝(どんのうますだたかし/1847~1938)や山渓富太郎(1868~1938)など、時の日本を代表する財界人であり文化人でもあった人々と交流を結び、近代の茶の湯の世界で頭角を現した。書画や、和歌、俳句、作陶に熱心であった。また、茶道具の収集家でもあり、特に本阿弥光悦作の黒楽茶碗「時雨」(重要文化財)の所蔵者としても知られた。
 如春庵は昭和初期に一宮の本宅ではなく、覚王山の別邸で家族と暮らしており、3人の娘(故人)を椙山女学園に通わせていた(同窓会名簿で確認済)。この別邸から眺めた風景を山田秋衛(森川家と親交のあった名古屋の画家)が描いた「覚王山十景図」が知られているが、松林の間に椙山女学園の校舎が描かれている。
さて、この掛け軸自体は、別邸で暮らしていた時期に如春庵と親交の深かった鈍翁益田孝によって書かれ、如春庵が表装・箱書を行ったことから大変貴重な掛け軸である。
 掛け軸中、「孝」は鈍翁益田孝(三井財閥の初総帥でもある)であり、「三輪」は朝野三輪(1722~1806)で、60年間も病床にあった夫に仕え、貞婦として知られた一宮出身の俳人である。この貞婦を讃えるという内容から当時の椙山女学園に贈られたと考えられる。
 今回の調査によりこの掛け軸は薄い桃色の紙面に書かれ、一方で森川家には白色の紙面に書かれた同様の掛け軸が存在しており、紅白で対をなすことが判明した。
 また、現在の森川家(一宮市)には、如春庵が編集した「夏蔭帖」という書物を椙山女学園に寄贈したことによる校長椙山正弌の礼状(大正15年当時)が残されている。これは如春庵との親交が窺えるものであり、如春庵と椙山女学園は大変縁が深いことを示している。
 (今回の調査は文化情報学部の飯塚恵理人教授に全面的な協力をいただいた)
 
 

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男爵益田翁孝貞三輪女頌徳之詠草

 

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