Sugiyama 人間になろう 椙山女学園歴史文化館

企画展「椙山女学園大学生活科学部生活環境デザイン学科学生作品展」を開催しました

  在学生が実際に講義において作り上げた23点の作品を展示しており、ドレスや模型、ランプなどバラエティーに富んだ椙山生らしい個性的な作品が並んでいます。いずれも優秀な作品であり、中には関係団体主催の展示会に出展されたものや2010年度「卒業展」の優秀賞や特別賞を受賞したものも含まれています。この機会に皆様お誘い合わせの上、学生たちの感性の溢れる作品を是非ご鑑賞ください。

【開催期間】 2011年3月10日〜2011年9月18日

【開催場所】  名古屋市千種区星が丘17-3

       椙山女学園大学星が丘キャンパス 大学図書館4F

       椙山歴史文化館 文化展示室

【開館時間】  水・金曜日10:00~16:00  

【お問合せ】  椙山歴史文化館   TEL(052)781-4590(直通)

        椙山女学園総務課 TEL(052)781-1186(代表)

【歴史展示室トピックス 4】 <「糸菊」とその歴史>

 

【歴史展示室トピックス 4】 「糸菊」とその歴史

 

「糸菊」は学園が発行する各学校・付属機関・同窓会の1年の活動内容が詳細に掲載された年刊誌として馴染み深いものとなっていますが、「糸菊」が発行される前にはその前身にあたる「糸櫻」という刊行誌がありました。
 「糸櫻」は明治39年に創刊され、和風会(今でいう生徒会や同窓会の母体)が発行していた月刊誌で、名古屋裁縫女学校内の<しだれ桜>と裁縫で欠かせない<糸>にちなんで命名されました。当時の内容は創設者・正弌氏をはじめ教諭による論文や生徒達の作文や俳句が掲載され、文芸色の強いものでした。大正2年に大正天皇と皇太后が名古屋にご宿泊された際、本学の生徒が手芸の糸菊の造花を献上した事をきっかけに「糸菊」と改名しました。
「糸菊」は昭和19年から昭和23年の4年間は戦争のため休刊していますが、昭和24年の大学開学を機に復刊し、大学開学の特集が大々的に組まれました。後の昭和51年(1976年)の「糸菊(創立70周年記念)」で、「糸菊詩に思う」の中で須田昌平教諭がこの復刊第一号について「表紙は栄養失調のような蝶々が3匹で、中身も28ページしかなく、わら半紙のような紙質であり、お粗末この上ない姿の糸菊である。しかし、考えてみるとこれは無残に踏みにじられた若草が地下に細々と命をつなぎ、世の光に再び新芽を吹き出したように感じられる」と困難を伴って復刊した当時の学園の苦労を振り返っています。
現在、椙山歴史文化館では「糸櫻」創刊号から「糸菊」2010年版までの全105冊が整然と並んでおり、表紙絵は生徒の作品によるものが多く、表紙からも時代の移り変わりを見て取れます。「糸菊(糸櫻)」は創設以来、椙山女学園の歴史を物語る存在であり、椙山女学園に関わるすべての人々と共に現在もその歴史を刻み続けています。
 
 
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【歴史の窓 2 】 小倉遊亀と椙山女学園

 

 

 小倉遊亀(旧姓溝上)は、上村松園とともに日本を代表する女流画家のひとりであり、明治28(1895)年3月1日、滋賀県大津市に生ました。大正6(1917)年、奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)に入学し、ここで図画の教師であった横山常五郎に絵の指導を受けています。
遊亀は、大正8(1919)年5月から翌年3月まで、当時の椙山高等女学校に国語の教諭として着任しました。事実、在任中の大正9年版の卒業アルバムの教員写真(右写真)にその姿をとどめています。1年足らずの短い間ではあったが、授業だけではなく「校友会」の役員として雑誌部の部長を務め、『糸菊』大正八年号の編集および発行の代表者として奥付に名前を残しています。
その後、大正9(1920)年には、横浜の捜真女学校の教師となり、安田靫彦に師事しました。そして、大正15(1926)年には「胡瓜」が第13回院展に初入選しました。
戦後の小倉遊亀は、院展に優れた作品を次々に出品し、数々の受賞に輝いています。昭和55(1980)年には文化勲章を受章しました。女流画家としては昭和23(1948)年の上村松園以来のことでした。
平成12(2000)年7月23日、105歳の長寿を全うして逝去しました。
 
 

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手作りの「椙小の歴史」

 

平成22年の秋より椙山小学校の廊下の壁に新しく「椙小の歴史」が作られました。その壁は校長室・職員室の前にあって、児童はもちろん父母も来客も誰もが通る一番よい場所にあります。教師の手作りで小学校にふさわしい楽しく温かみのある一覧になっていて、歴史を簡潔に分かりやすく辿ることができます。学校の歴史を、自分が生まれた年や父母や祖父母などが生まれた年などと対比して見ながら、自分が今ここに居ることの意味を考えることができる場となりました。(反対側の壁には児童の活動が紹介されていて、廊下全体が椙小の昔と今を語る魅力的な廊下になっています)
 
 
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  以上は「歴史文化館ニュース第4号」に掲載されたものです。

来館者が語る椙山での戦争の時代

 

 本館の歴史展示室には「戦争・学徒動員」の展示ケースがあります。そこには当時実際に使われていた「学徒戦時奉公隊腕章」や学園が戦後、県に提出した「学徒動因に伴う死亡報告」や爆死した学徒動員の級友と恩師に捧げる「追憶の書」など多くの資料があります。

 過日昭和2年生まれの卒業生(椙山女子商業学校)久野静子さんがご家族とともに来館され、展示物を見ながらご自身の体験を語ってくださいました。以下に概略を紹介します。

「・・・戦争のため修学旅行は取りやめになり卒業も3ヶ月の繰り上げ卒業だった。在学中は“椙山隊”という名前で三菱重工航空機の工場で3年ほど働いた。飛行機を作っていた工場であったため米軍のB29から集中的に攻撃を受け、その際には三菱の防空壕に逃げていた。あまりの激しい空襲のため近くの大江橋を渡って道徳にあった倉庫に逃げたこともあった。空襲が収まると疎開先の横須賀(東海市)まで歩いて帰った。また飛行場で女子挺身隊として怪我をした兵隊の受付や、病院へ運ばれる死体や重病の人々の名前や住所を衣服の名札で確認し書き取る手伝いもした。昭和20年の8月15日急に全員が集められ「12時のラジオ放送」を聞いた。その場には兵隊も整備兵も女子挺身隊もいた。敗戦そして終戦を知らされると皆泣き、中には切腹すると言い出した人もいた。皆アメリカ人がやって来て殺されるのだと思っていた。終戦から暫く経ち、満州に行っていた兄が帰ってきた・・・・・」
 いろいろな歴史資料を興味深くご覧になり思い出は尽きないというご様子でした。スタッフ一同、改めて戦争について考える機会となりました。

 

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 以上は「歴史文化館ニュース第4号」に掲載されたものです。

 

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